2013/09/15

つまり俺は、「泣くのは自分次第」と言われれば、やはり泣かないわけだ。

 ももクロファン、あえていえば「モノノフ」はみんな、ももクロと出会って人生が変わったとか言ったり、ライヴや様々な媒体での一挙手一投足に涙したりする。みんなももクロに感動しているのだ。今回はなんで俺にソレが出来ないか、を考えてみた。

 よく言われる「全力」というキーワードにはそろそろモノノフ達も違和感を感じ始めているのだけど、最近気付いたのは、そもそも俺にはソレ自体が「どうでもいい要素」だった、ということだ。

 ももクロと出会う前、色々疲れ始めていて、(言い回しとしては嫌いだけど)「癒し」的な物を求めて女性ヴォーカル物を色々聴いていた、と言う話は以前も書いた。色々巡った結果その終着点(とりあえずの)としてももクロに行き着いたのだけど、この経緯は結構共通している人も多いと思う。ただ、そこに求めていた物がどうも俺は少し違う。

 俺が求めていたのは「緩めの女性ヴォーカル物」で、あまり緊張感やパワー、エモーショナルさを感じ無いもの。少なくとも出会った当初のももクロは歌唱の稚拙さもあってその条件に近かったし、なによりUstなどで見られる普段の姿に、俺の愛好する「ファンタジーとしての放課後感覚」を感じてしまったのだ。つまり、漫画の「究極超人あ〜る」「あずまんが大王」「けいおん!」などに感じていたあの感覚。あれをリアルにやってるのがももクロだ、というのが俺の認識。で、音楽的にはフックが山盛りで仕掛けられた異常で過剰な曲を稚拙ながら女の子達が(時に女性向けじゃ無さそうな歌詞も)歌い踊る。踊りも、変。

 ここまでで要するに「感動」や「全力」ってキーワードは一切出てこないわけ。俺はコレを見てにやにやしたいのであって、感動して泣きたいワケじゃないのね。俺がももクロに求めてるのはひたすら「楽しい」ことだけ。現実逃避なんだよね、要するに。

 あの全力の象徴とも言われるエビぞりジャンプでさえ、俺にとっては「過剰なエンターテインメント」の一環でしか無くて、ミライボウルのアレンジ同様俺にとっては爆笑(歓喜と嘲笑を含む)の対象でしかない。「すげー!」とは思ってもその背後の夏菜子の物語に泣くことはないんだよね。読める範囲のインタビューは目を通して、そういうバックボーンを知り尽くして居てさえも。

 ツイッターでフォローしてくれてる人はよく知ってるだろうけど、俺はブレないことには定評のある人で、多分今後もももクロに求める物は変化しない。相も変わらずあの場所にはハッピーだけ、しかも「俺のハッピー」だけを求め続けるのだ。

 まあ、自分の今までの趣味や生活と一番遠い、若い女の子のアイドルグループ、って選択はそういう意味で素晴らしかったな。非現実的なくらい天真爛漫なあの子達だったからこそ、この気分は得られたわけだけどね。

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